山菜採りもするといって出かけていった(『写真の国のアリス(第192号)』参照) 我が家の男どもは、フキノトウだのよくわからない草だのを袋に詰めて帰ってきた。
よくわからない草(名前忘れたけど、食べられる草)はおひたしに、フキノトウは天ぷら風にして食べてみた。
その晩、布団に入った後。なんだかめちゃくちゃムカムカする。これは……と思ってトイレに駆け込むと、食べたもの全部吐き戻してしまった。飲み過ぎ?と思うほど飲んでない(そういえば、飲み過ぎて吐いた最後は10年以上前だ!子供が生まれて飲み過ぎることがなくなったのだ)。何が原因?と涙目で一晩中戻し続け、ほとんど眠ることができなかった。吐くもの全部なくなっても、吐き気が波のように押し寄せて、胃がひっくり返るかのように苦しい。牡蠣に当たった時以来の悶絶ぶりだ。
夫は「フキノトウじゃね?アク抜き適当だったし」というが、フキノトウで当たるもんだろうか。ちょっと調べてみると、毒成分が含まれていたりで、当たる人がいるらしい。同じもの食べて当たったのは私だけなので、体質、体調が関係しているのかもしれない。まあやっぱり食べられたくないわよね。フキだって。春の野草、恐るべしである。
『山里でくらす 中ノ俣の一年』にも、おいしそうな山菜料理がずらりと並んでいる。山菜は茶色と緑が基調だから地味に見えそうだが、実にカラフルだ。『雪がとけたら 山のめぐみは冬のごちそう(第243号)』でもあったように、こちら中ノ俣で暮らす人たちも、
村のお年寄りたちは、待ってましたと嬉しそうに山菜を摘みに出かけます。
中ノ俣とは?新潟県上越市にある、中ノ俣川を中心とした谷あいの集落だ。いちばん近い高田の町までは車で30〜40分。ほっそい道をぐねぐね上ったり下ったりしながらの道行きだ。炭焼きが盛んだった1960年代には、600人以上が暮らしていたこの地も、現在定住しているのは60人足らず。ほとんどが高齢者、子供は一人もいない。
中ノ俣の生活は美しい。昔ながらの、自然と調和した暮らしだ。
……なーんて、きれいなことを書いてみたくなるが、その実、この本でいちばん印象に残ったのは「カズエさん」の一言だ。
話が冬のことになると、カズエさんの顔はとつぜん厳しくなりました。
「つらいなんてもんじゃねえがね、雪が深いもんで足は冷たいし、腹はへるし、思い出したくもねえよ」
もちろんこれは昔がたりで今は事情が違うけれど、厳しい自然と向き合って生活していることには変わりない。山間の土地では田畑しごとも一苦労だし、雪に閉ざされる前には「雪囲い」の作業、降雪時には雪下ろしなど、雪しごとの労苦も半端ない。
自然と調和する、助け合って暮らすといえば聞こえはいいが、厳し過ぎる自然に合わせて暮らすほかない、人と助け合わないと生活できない、という現実も見えてくる。だから、この地でのこの生活は「失われつつあるもの(本号「作者のことば」のタイトル)」にならざるを得ない。
数年経つとほとんどの村人たちと顔見知りになり、村のしきたりもだんだんわかってくるようになりました。同時に、長年村で行われてきた行事が行われなくなってしまうので、もっと真剣にたくさん写真を撮らなくてはいけないと思うようになりました。
若い世代の人たちと違って、お年寄りたちの15年は残酷なほどみじかく、みるみる人口が減っていきました。(本号「作者のことば」より)
『海と川が生んだたからもの 北上川のヨシ原(第432号)』でも、「当たり前にあった自然も一瞬にしてなくなることを目の当たりにし、記録することの大切さを実感した」と書かれていたが、記録されるもの、記録したいと思う人がいるものは、ある意味幸せなのかもしれない。たとえ、のちに失われてしまったとしても。世の中には、記録されないまま、失われてしまったものも数多くあるはずだからだ。
中ノ俣は「失われゆく文化」の生きた博物館なのだろうか。実用としては廃れてしまったわら仕事(『草と木で包む (たくさんのふしぎ傑作集) (第183号) 』)も、ここでは現役だ。こしらえられた実用品の数々は、繊細で美しく見事なもの。これを作れる人がいなくなってしまうなんて、本当に惜しいことだと思う。
#02 ワラを編む雪の里、中ノ俣 | 003 かくも美しき里山の年寄りたち 佐藤秀明 Hideaki Sato | 日本列島 知恵プロジェクト
山里でくらす 中ノ俣の一年 (月刊たくさんのふしぎ2021年5月号)
- 作者:佐藤 秀明
- 発売日: 2021/04/02
- メディア: 雑誌
しかし、これは私(大人)の感想だ。来し方行末を思っての感傷など、大人の持ち物にしか過ぎない。
子供たちはどう読むのだろう。
と思っていたところ、昨日のNHK「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ! 」(「古舘さん!大変ですよ 秘蔵映像だらけのおなまえ事件簿」)で、ヒントを得た。
「廣實申し」という、こちらも山口県の限界集落で行われる奇祭について、ゲストの峯岸みなみが漏らした感想だ。
“絵本の中みたい”*1
そうか、絵本か。もしかしたら子供は、この本を昔話のような感覚で読むのかもしれない。番組ではファンタジーという言葉も出てきていたが、何らかのつながりでもない限り、自分たちと地続きの話とは思えないことだろう。
そもそも、著者と中ノ俣のひとの出会いからして昔話みたいだ。山野草の写真を撮りに山に入ってたら、藪の中からおじいさんがあらわれた。おじいさんと話をしているうちに、あれよあれよのうちに家に連れてかれごちそうを振る舞われ、宿に帰ることができませんでした、みたいな。
私が本書に微かな違和感を覚えたのは、その昔話感かもしれない。きれい過ぎると思ってしまったのだ。苦労話もないわけではないけれど、人の営みに関わる生々しい話は出てこない。大人である私は、きれいなところだけでなく、人びとの血や汗や涙の話、どろっとした部分、そういうところも見てみたいなあとか出歯亀みたいなことも思ってしまう。中ノ俣の人びとは、昔話のおじいさんおばあさんじゃなく、私たちと同じように人生を生きてきた男であり、女であると思うからだ。
もちろん、それは「たくさんのふしぎ」の役割ではない。子供たちに、必然性もないのに血や汗や涙の話をすることはないのだから。
*1:祭内のアイテム鬼盛ご飯や奇行に対しての感想と思われる。お祭りという非日常のことを、本書で描かれる「中ノ俣の日常」とつなげて語るのは、相応しいことではないのかもしれないが。