こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

6つの国から「わたしの絵です」(第109号)

  日本から海をこえてまっすぐどんどんいくと着いちゃう“となりの国”は、たくさんあります。いくつあるかは、地図帳か地球儀を見てしらべてみて。すぐ近くの国もあれば、地球の反対がわの遠い国もあるでしょ。

 そういう“おとなりの国”のうち6つをたずねて、そこで出会った6人の9〜10才の少年少女に絵をかいてもらいました。

さて6つの国はどこでしょう?

(現在の呼称とは違っている地名もあるが、この記事では本誌記載のまま表記する)

子供たちのほとんどが小学校3〜4年生。ちょうど「ふしぎ」を読む子たちと同じ年頃だ。

本号をまとめた編者は西村繁男だが、子供たちへの取材はそれぞれ違う人たちがおこなっている。

ベラウは武田ゆり子(『ア・ダ・ラ・シャバがやって来た!』)

サハリンは中島洋https://www.theaterkino.net/?yomoyama=yomoyama-2920

韓国は小園弥生連載0 すっとこどっこい、よーいどん | しごとのあしあと

チリはベロニカ・サラス・モンテス。

上海は斎藤次郎(『外国の小学校 (たくさんのふしぎ傑作集) (第13号)』『手紙で友だち 北と南 (たくさんのふしぎ傑作集)(第60号)』)

そしてアラスカは……星野道夫(『アラスカたんけん記 (たくさんのふしぎ傑作集) (第20号)』『森へ (たくさんのふしぎ傑作集) (第105号)』)だ!

取材時は1992年〜1993年。子供たちは当時9〜10才だから、今は40代に入るか入らないかというところだろう。この頃の自分と同じ年頃の子供がいてもおかしくはない。

好きな教科があったり、嫌いな教科があったり。
宝物があったり、ほしいものがあったり。
得意なことがあったり、なりたい夢があったり。
お母さんが優しかったり、お父さんがこわかったり。
きょうだいがいて遊んだり、いなくても友だちと遊んでいたり。
暮らしや習慣、言葉こそ違え、日本の子供たちとそう変わるところはない。
描く絵も、テーマやタッチ、選ぶ画材までそれぞれに個性があって面白い。
大人っぽい細やかさで描く子もいれば、大胆なデフォルメを決める子もいる。
みんな一生懸命にその日を生きている。

しかし、ちょっと異色なのは4番目、チリ・サンティアゴ市のカレンではないだろうか。

 サンティアゴには、まずしくて自分の家をもてない人たちがおおぜいいます。そうした人たちが、いっしょになってワッと空き地をぶんどり、自分たちで家をたててしまうことがあります。そしてそのあと、土地代として月々少しずつお金を払っていくのです。みんなの協力で、道路や下水の工事をしたり、電気を引いたりして、しだいに新しい町ができていきます。

おそらくスコッターと呼ばれるものだろう。この不法占拠ともいえる行為は“ぶんどり”と訳されているが、そのプロセスをカレン自身が語っているのが面白い。

 ここに来たのは、去年の6月19日。“ぶんどり”をして、このキャンプをつくったの。途中までバスで来て、それからみんな走った。子どもの手を引いたり、抱いたりして。だって、後ろに警官隊がいたのよ。

 来たばかりのときは、こわかった。地主のフィロメーナさんが“立ち退き”の手続きをしたんで、警官隊の大型トラックが来て放水しようとしたし……。48時間たって、やっと追い出されないことがわかって、ほっとした。それで、今、ここに住んでいる!

 そのうちかんたんな家を組み立ててもいいことになって、テントじゃなくなった。

 ここに来る前に住んでたところは、家賃が高くてたいへんだったの。だから、去年の2月に困っているひとが集まって、「“アンデスの夢”委員会」をつくって、ひみつに“ぶんどり”の準備をしたわけ。

 フィロメーナさんはまだ土地を売ろうとしなくて、それ、すっごく腹が立つ。彼女がオーケーしてくれたら、ここが自分のお家になるのに。あ、お金はあんまりなくていいの。8万ペソ(やく6万円)だけためればいい。

 そうなったら、ちゃんとした家にして、電気なんかも正式に引いて、ずっとここに、くらすことになる。うちは、一部屋足して、二階にするの。お父さんがやってくれる。だって大工さんなんだもん。庭もつくって、バラとかをうえる。

カレンの絵のなかでいちばん大きく取り上げられているのも、“ぶんどり”した日を描いたものだ。カラフルなテントと緑の木々が散りばめられているが、描かれる人物は一人。食事を用意している女性だけだ。山並みの向こうには黒い雲と雨が見える。寒々しいような温かいような不思議な雰囲気のある絵だ。

お母さんはキャンプの仕事を手伝ったり、一家でデモや集会や座りこみに行ったり。“ぶんどり”の人たちの一部がハンストしたりで、死んじゃうんじゃないかとつらい思いをしたことも吐露されている。

この辺の世界は、いま大人である私でも想像がつきにくいけれど、当時の子供たちはどう読んだのだろう。こんな世界もある、と意外にすんなり飲み込んだだろうか。

 

異色といえば、先の大戦の「影」がそこかしこにチラついているのも特異なところだ。

たとえば1番目、カミラのベラウ(パラオ)。

最初にあるベラウの紹介では、昔は日本の委任統治領になっていて、ペラウの言葉には日本語由来のものがあったり、日本名由来の名前を持つ人もいることが書かれている(カミラの姓名には「カズオ」があるが、これも日本名からきているのかもしれない)。カミラの住むアンガウル島では、かつて激しい戦闘がおこなわれ、たくさんの兵士が亡くなったことも(アンガウルの戦い)。

記念日である「アンガウル・リベレーション・デイ」の注には、

リベレーションは、“解放”という意味。日本が負けて戦争が終わり、アンガウルの人々が解放されたことを祝う記念日。

とあったりするのだ。

2番目、サーシャのサハリンの紹介もこうだ。

 戦争中まで、サハリンは樺太といい、南半分は日本の領土で、日本人がおおぜい住んでいました。戦争が終わってからは、ロシアの領土になり、ロシアの人たちと、日本が戦争中にむりやりつれてきて、戦争が終わってもそのまま置き去りにした韓国や朝鮮の人たちが住んでいます。サーシャの学校の友だちにも、韓国や朝鮮の子どもたちがたくさんいます。

3番目のソンミの韓国でも、もちろん取り上げられている。

4年生の国語(韓国語)の教科書に出てくるのが、ユ・ガンスンという少女のお話。“日本から国と民族を守ろうと韓国の人たちが立ちあがったとき(1919年)、ユは、先頭に立って「独立ばんざい!」とさけんでつかまり、ひどいごう問を受け死にました”

「日本の子に聞いてみたいことある?」という質問にソンミが答えるなかに

「(略)それからねえ、この子がどうしても聞いてっていうんだけど、昔どうして日本は韓国に攻めてきて、国をとっちゃったのかって。よく考えてもわからないの」

という言葉もある。そして“国をとっちゃった”のところには、

今から80年あまり前の1910年、日本は軍隊の力で韓国を自分の領土にしてしまった。

という注も付けられているのだ。

5番目は功成の中国だが、ここでも戦争の話題のなかでこんな注がある。

日本は50年ほど前、中国に攻めこみ、たくさんの中国の人たちを、ひどい目にあわせた。

この辺のところ、当時の子供たちはどう読んだのだろう?昔のできごととして、自分とは無縁のものとしてとらえただろうか。

自分が小学生のときを思い返すと、実のところ第二次大戦については、空襲や原爆での悲惨な死や、戦闘や特攻での戦死、追い詰められた上での集団自決など“受けた被害”の印象が強く、日本は加害側であったという視点はまるっきり抜け落ちていたように思う。国語や道徳の教科書で取り上げられるのは「戦争での被害」が主だし、社会の教科書に書かれるのは事実の羅列のみ。韓国や中国の人々にとってはどういう戦争だったのか、その身で想像するような機会はなかった。

 

最後のマヤは、星野道夫らしいアラスカの紹介で始まっている。

 マヤは、そんな大自然の中で生まれた、元気な女の子です。アラスカの子どもたちは、(遊ぶことにかんしては)ほんとうにしあわせだと思います。だって、山登り、スキー、釣り、川下り、それからクマやムースやさまざまな野生動物を見にゆく……。そんな大自然が、すぐうら庭からはじまっているのですから。

星野道夫が生きて当地に住み続けていたら、翔馬くんも「アラスカの子どもたち」として育っていったのだろうか?

 

最終40ページ目は、6人それぞれが話した内容についての質問をする、という形でしめくくられている。

たとえば、

わたしのあだ名、おぼえてる?

とか、

“ぶんどり“をした日の晩は、暑かった?それとも寒かった?

とか。

思わずどうだったっけ?と読み直すしかけになっている。本号はさらっと読めてしまって、なかなか読み返すまでいかないので、うまい仕組みだと思う。

「作者のことば」の欄には、編集部からのメモで、

6人の誰かに手紙を出したい人は、4月中にふしぎ新聞社へ。まとめて送り、返事がきたら新聞で紹介します。

とある。果たして手紙は紹介されたのだろうか?

 

近年の「ふしぎ」には、子供たちはほとんど登場しない。

しかしこの頃までの「ふしぎ」は実在の子供たちを取材して描いたり(『手紙で友だち 北と南 (たくさんのふしぎ傑作集)(第60号)』)、子供が体験するという体で描かれたもの(『スイス鉄道ものがたり (たくさんのふしぎ傑作集)(第88号)』)が多い。

今見ると、子供たちの“いま”を映しとるという意味で、貴重な記録になっているなあと思う。

いまは個人情報やら何やらで、取材してそのまま登場させるのは難しくなっているのだろうが、こうした「ふしぎ」が作られなくなったのは惜しいことである。